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管理者プロフィール

はじめまして。「ねこまる」と申します。です。

このページを開いていただき誠にありがとうございます。

このブログを立ち上げようと思った「ねこまる」って
どんな人なのかを以下に長々と書いてみました。
読んでいただけたら幸いです。

①基本情報


・公立小学校特別支援学級支援員
・オンライン秘書
・筆文字ライター
・僧侶
・SNSネーム:ねこまる
・1974年5月19日生まれ(50歳)

<実績>
・公立学校講師・支援員
・フランチャイズ学習教室運営・講師・補助講師
・通信教育添削者
など教育業界勤務歴15年以上
・オンライン秘書業務継続案件2件・単発案件5件

②幼少期~大学4年生:田舎での順風満帆な人生


私はとある田舎の山間部にある「仏教寺院の一人娘」として生まれました。
仏教寺院の娘といっても冬になればクリスマスケーキも食べましたし、
イブにはサンタクロースがきてプレゼントが枕元に置いてあるという
父親と母親が格別仲が良いという感じではありませんでしたが
ごく普通の家庭に生まれ、
普通に幸せな家庭で育ったのだと思います。

小・中学校の成績は上の下くらいで、
走らせれば市内優勝・泳がせても市内優勝・スキーをさせても市内優勝と
市内では「何でもできる寺の娘」として有名だった気がします。
そんな私でしたが天狗になる性格ではなかったからか友達もいて、
普通に悪さもやんちゃもして大人に怒られたりしてこどもらしい毎日をおくっていました。

そんな私が先生になりたいと思ったのは高校時代になります。
実家の両親は寺院の仕事で忙しく
私の陸上、水泳、スキーのことには無関心だったためか
学校の部活動の顧問が私にとって信頼できる相手でした。
そんな先生にあこがれて
将来「先生」になるんだ!と心に決め
「文武両道」などと部屋の壁に掲げ、大学受験の勉強をしたのを覚えています。

なんでもできるといっても
教育学部のある国立大学に行くには少々学力が足りず、必死に勉強した記憶があります。
成績の伸びに少し悩みましたが、
得意の「体育」があったのでそこを活かすことにし、
そして努力の結果、志望校に合格!
教育学部保健体育科専攻に進学することができたのでした。
心から喜んだ人生の一幕。一生忘れることのないできごととなりました。

こう書き綴ると私の人生ここまですべてうまくいっているようにも見えますが、
恋愛、友達関係をはじめ細かく見れば、普通にたくさん悩みはありました
学校に行かず、河原でさぼったこともあります。
カラオケで発散したり、
校則では禁止されているボーリング場で羽目を外して補導されたりもしました。
しかし、当時は大きかった悩みも、
今思えばすぐになんとか乗り越えられるような人生のスパイスのようなもので
「人生順風満帆」とはこの時代の私に使う言葉だと思います。

そして、こんな人生がずっと続くのだと疑いもしませんでした。

③大学5年生(留年):下降人生の始まり


大学生活は順調に進んでいました。
相変わらず人並みに単位を取るのに苦労したり、恋愛に悩んだりと
人生のスパイスは味わっていたものの
親と離れて夢だった一人暮らしを実現させてもらえていましたし
友達に恵まれ、毎日楽しく暮らしていました。
スキー部に入り地元では国体選手に選ばれたりもして
やはり「順風満帆」
大学卒業後は
地元に帰って体育の先生をする道を1ミリも疑わない人生を歩んでいました。

そんな時、私は

軽い気持ちで

大学の授業の単位ではなく「国体」を選んだ。。
そう、卒業単位を取る大事な集中講義を休んで
「国体(北海道開催)」出場参加を選んだのです。

そしてその選択をしたその日から、

私の人生は一気に下降の道を歩むことになるのです。

ほんとうにその日から。。

当たり前ですがその1単位を落としたせいで私は留年が決定しました。
その1年を無駄にしないようにと幼稚園教諭の免許もとりました。
心理学の講義も空き時間にとりまくり、
一見無駄に見えないこの1年。

1年なんて人生において一瞬のことだと思っていました。

しかしこの1年は想像以上に辛く長い1年となったのです。
同級生が一人もいない
それがこんなにも辛いものだとは思ってもいませんでした。
5年間お付き合いをしていた同級生の彼氏は一足先に地元に帰り先生をしていました。
そこだけが私の心の支えだったのかもしれません。
が、この留年の間に私ははその彼氏と別れることになります。
想像以上にメンタルが落ち込みました。
そしてそれに追い打ちをかけるようにストーカー被害にあいます。

私のメンタルとの闘いはこの辺りから始まったのだと思います。

 

④新社会人:人生一度目の挫折


そんな私ですがなんとか大学は卒業し、
メンタルやストーカー被害と戦いながらも勉強だけはして
教員採用試験を受けましたが正採用とはならず、
新社会人1年目は、中学体育講師として地元の中学に赴任することになりました。
正教員ではなく、講師ですので、病欠の先生の代わりをすることが多く
赴任先が数か月ごとに変わりました。
小学校の免許も持っていましたのである日小学校に赴任が決定。

そしてここで私はさらにメンタルが落ちることになるのでした。

勤務初日の前日、電話が鳴ります。
私が担任を持つ予定の子どたちの中で
「万引き」をした子がいるのですぐに来てほしいとのこと。
この先1年ここで働くことになるのですが、大変だったのは言うまでもなく
赴任期間終了間近の時には、
私は完全に「うつ病」になっていました。

私は教職を離れることを決意しました。
これまで教師になるために何年もの間頑張ってきたのに
こんなことで簡単にやめてしまうのか・・
なんどもなんども自分に問いかけ、悩み、そして決断しました。

私は子どもたちのことよりも、仕事のことよりも
自分を最優先しました。
自分を治すことが先決だと思ったのです。

これが私の人生初めての「挫折」というものでした。

⑤26歳~47歳:メンタル強化時代


教職を離れてからはメンタルは回復に向かっていきました。
留年の時に取得した幼稚園免許を使って保育園に就職しました。
保育士免許は持っていなかったので補助職員としての採用でしたが
毎日が充実していました。
教育の基本は「幼児から」などと思い、
毎日保育士の先生の補助業務に専念した記憶があります。
働きながら子どもたちの発達・保育に関して学べる環境でした。

それから3年。結婚を期に私は保育園を退職し、
これからのライフスタイルを考えて、
実家(寺院)で塾を開業することを決めました。
夫の家に住んでいましたが
実家に帰る口実を作りたかったのだと思います。
初めての塾開業については
0からの立ち上げは難しいと考え、
まずは大手学習教室を展開しているフランチャイズ形式の教室を運営することにしました。
教員と違って生徒を集めなければ教えたい内容も伝えることができません。
集客、経営、事務などの勉強は教育学部では習わない初めての領域。
でも、それがとても新鮮で楽しかったのを覚えています。
大手企業から学習教室立ち上げのノウハウを学べるので
学習教室はすぐに軌道に乗り始めました

またこの企業の理念も好きでした。
「子どもたちの支援」
勉強をしたい子どもたちが主体で先生はそのお手伝いをするという理念です。

私はこのまま実家の寺院で子どもたちを集め、
学習教室の先生をしながら生きていくのだと思っていました。

そんな中ある日突然、夫が「会社を辞めたい」と言い出します。
最初は一時の気の迷いだと思ったのですが
本気度は高かったようで、転職先も決め私が止める間もなくやめてしまいました。
しかも転職先は「全国転勤」を伴う会社。

私は次への決断が求められました。
「夫についていくのか、このまま地元に残るのか」です。

夫についていくことを決めるのなら、教室をたたまなければなりません。
このまま地元にのこり、夫が単身赴任をすることを選択すれば
子どもたちはなかなかお父さんと会えないことになります。

私は迷った末、「夫についていくことを決めました」

その後、私は全国各地で引っ越しを繰り返しながら
ワンオペ育児のすさまじさを経験していくこととなります。
メンタルを鍛えたというならこの時期だと思います。

自分のやりたいことに関しては長いトンネル時代だったとだけつづらせてもらって
自己紹介の後半に入っていきたいと思います。

まずはここまで読んでいただきありがとうございます。

後半は、強いメンタルを持った私の人生です。
続けて読んでいただけましたら幸いです。

⑥48歳:2度目の挫折


私は転勤ワンオペ時代、仕事を何もやっていなかったかというとそうでもありません。

キャリアは何とでも作れる!やれることをやろう!と思い、
まずは転勤族になる前に私がやっていた
大手フランチャイズの学習教室で添削補助の仕事をすることにしました。
経営者の方がとてもやさしい方で
子どもを連れてきて働いてくれればいいと言ってくださり
子どもを預ける場所がなかった私にとってほかでもない好条件の仕事でした。
その後は大手通信教育の添削の仕事もしました。
完全在宅の仕事だったのでこれまた育児との両立するには好条件。
3年コツコツとやり続けました。

そんなある日、育児もひと段落したからでしょうか、ふと教職に戻ることを思いつきます。
もう一度・・そんなことを思い始めたのです。
期限が切れる教職の免許を更新する講習を受け試験を受けました。
そして、学校講師に戻ってみることにしたのです。

メンタルが強くなった私が教職に今から戻って
どこまで通用するのか試してみようじゃないか
そんな気持ちでの挑戦でした。

学校に戻ってみた率直な感想は、
ある程度システムは変わっていましたが
子どもたち、先生たちのやることは
20年余りの年月がたっているとは思えないほど変わっていないなと思いました。

そして、学校講師再チャレンジして分かったこと。
それは、私は「教員に向いていない」ということでした。
人生も重ねてきたし、メンタルも回復していたし
自分への自信もありましたので、今度こそは・・
と思いましたが、そんなに教員の仕事は甘くはなかった。

これが私の教員「2度目の挫折」です。

子どもたちへの熱意だけではどうにもできない教師の力量と言いますか
教育技術がまったくもって足りない!
そう思いました!

「教員不適合者」「教員脱落者」決定!
「先生になれなかった女」!
あえて自分をこう呼ぶことにしました。

こう呼ぶことで教員への未練も執着もなくそうと思ったのだと思います。

しかし2度目の挫折はなぜかすっきりしていました。

そのあと私は
「次年度からは学校支援員として働こう」
と決断します。
職種を変更をし、本当の意味での再出発することになるのでした。

 

⑦49歳:「学校支援員」という仕事のスタート


私は「学校支援員」として主に小学校で働くようになりました。
1年目は「発達障害児対応支援員」
2年目は「特別支援学級児対応支援員」
として働きました。
時給は講師の時の半分になってしまいましたが
私の「得意」を活かせる職種はこれだ!と思いました。

わたしの仕事は「子どもの支援」ですが
今実際現場では教員の雑務も引き受けるつもりで働いています。

私の強みはいろいろな職種から教育に携わってきた経験です。
「正教員になれなかった女」ですが、
「教育を無駄に知る女」なのです。

50歳からは「学校支援員」に加えて教育業界のオンライン秘書もスタートさせました。
私は「支援」という言葉がとても好きです。

教育の仕事に長年携わり、
2度の教員挫折から
私は現職の先生方が
どんなサポートを必要としてるのかを学んだのだと思います。

教育現場での教員・子ども・保護者の笑顔
私の生きがい・そして目標です。

私はこれから死ぬまで
「先生を心から応援する女」として
生きていこうと思っています。

最後まで読んでいただきありがとうございました(=^・^=)
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